2021年夏の高知旅 パートⅤ



 

今回のブログは前々回のブログからの続きです。

 

高知県立坂本龍馬記念館の見学の後、一路向かった先はとある一軒家。

 

手前の家の奥にある旧家が目的地です。

 

下の写真、これが武市半平太が生まれた旧宅。

 

坂本龍馬や中岡慎太郎、板垣退助など、幕末の土佐藩の人々に大きな影響を与えた人物で、この武市半平太が亡くなっていなければ、薩摩や長州藩とも互角の尊王攘夷派の雄として土佐藩が渡り合え、明治政府の中枢を占めたのではないかと現代では評価されています。

 

武市半平太の人となりです。

 

幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。

 

号は瑞山または茗澗。

 

変名は柳川左門。

 

後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。

 

土佐藩郷士・武市正恒(白札格51石)の長男。

 

母は大井氏の娘。

 

妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。

 

板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる。

 

優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。

 

参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。

 

獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

 

武市の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。

 

中岡慎太郎ら一部の同志は見限って脱藩し浪士となって討幕活動を進めた。

 

後に中岡の仲介によって乾退助と西郷隆盛が薩土討幕の密約を結び、退助は土佐勤王党の志士らを釈放し、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。

 

また、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導したが、勤王の志士を再結集して戊辰戦争を戦い土佐藩兵を率いたのは武市と縁ある退助であった。

 

維新後、木戸孝允が山内容堂との酒席で酔った勢いで「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。

 

しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる。

 

半平太の人格を評する「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」や「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されており、中岡慎太郎が西郷隆盛に対面した時の印象に付いて「その誠、武市に似る」と評していることから、至誠の人と謳われた西郷に匹敵するほどの誠実な人柄だったことが窺える。

 

他方で、高杉晋作らの過激派からは穏健的と見られたり、半平太を切腹へと追いやった山内容堂からは視野狭窄といった趣旨の批評も為されていた。

 

久坂玄瑞「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」「その熱誠、西郷の上にあり」「真に国士の風あり」「松陰の学問文章、人材教育の手腕は遠く瑞山に優る、然れど風雲を叱咤して、旋乾轉坤の活劇を演出する将略に至っては、瑞山遥かに松陰に優る」

 

楢崎龍(龍馬の奥さん) 「武市さんが江戸から国へ帰るとき京で『一緒に帰らぬか』と言うと龍馬は『今お国ではだれでもかれでも捕まえて斬っておるから、帰ったら必ずやられる』と止めました。けれども武市さんは無理に帰って、はたしてあのとおり割腹しました。龍馬が『おれも武市と一緒に帰っていたもんなら命はないのじゃった。武市は正直すぎるからやられた。惜しいことをした』とため息をついて話しました」

 

田中光顕 「一死君国のため脱藩した志士達は、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使ったよ。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。わたしが坂本君や中岡君にオンシが、オラがといい、坂本君も中岡君も、わたしにオンシが、オラがで話したよ。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。なつかしいのう。もっとも武市瑞山先生(半平太)は別じゃった。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。例の墨絵の龍というのがあるだろう。瑞山先生は、墨絵の龍に似ているというので、墨龍の異名があった。それで、墨龍先生とも呼んだ。今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といったよ。さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していたよ。ただ、坂本君だけは、瑞山先生の前であぐらをかいて、アゴが、アゴがと放談をやっていた。この時には、瑞山先生も顔をほころばせて、アザが、アザがとからかっていた。とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった」

 

今は武市半平太の旧宅とお墓は国の史蹟となっています。

 

古来日本では無念や恨みを抱いて死んだ人物の怨霊には大災害をもたらすような強大な力を持つとされるものも存在します。

 

その中でも特に強力な怨霊として恐れられたのが、日本三大怨霊と呼ばれるのは菅原道真公、平将門公、崇徳上皇です。

 

菅原道真公は北野天満宮を始めとする全国天神社や天満宮に祀られ、平将門公は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られ、崇徳天皇はそのあまりの祟りを恐れられ死後「上皇」の尊称を送られ崇徳上皇になり、京都の白峯神宮に祀られています。

 

武市瑞山公(半平太)を祀る「瑞山神社」も、旧宅のそばにひっそりと建ち、武市半平太の無念を鎮魂し続けています。

 

そして坂本龍馬や中岡慎太郎達が、死の影の下にあっても学ぶべき教訓があると信じていたとすれば、それは武市半平太の生き様だったのかも知れません。

 

今回実際に現地に行ってみると、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太や板垣退助など、今でも普段の日常の風景の中で土佐高知に息づき皆さんから親しまれているのだなぁと感じました。

 

続く・・・

 

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